私が新卒で助産師としてはじめて勤め始めたのが
熊本のこうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)の病院でした。
私が勤め始めた年の5月に運用が開始され
新人でもその対応をすることに多く直面しました。
新人助産師は私を含めた2人
同じ科の看護師の同期は4人
みんな歳がバラバラで歳の差も13歳あったけど
とても仲がよく助け合っていました。
そもそも
私がなぜこの慈恵病院を選んだかというと
助産実習のときに
「来年度に日本で初めての試みをする施設がある」
ということを聞いたからです。
そのときから病院のことについて調べ
既に助産師として働いている大学のOGとも連絡をとり
ここで学びたい!貢献したい!
と強く思うようになりました。
この病院はお産数も多く
アクティブバースから無痛分娩まで行えるお産施設でした。
クリニックからの緊急搬送も多くみられ
毎日が目まぐるしい忙しさ。
それでも大好きなお産と赤ちゃんに関われることに
とても充実感を感じていました。
しかし、こうのとりのゆりかごは別でした。
詳細はかけません。
赤ちゃんの将来やマスコミのこともあり
預けられたことは院内でも
そのとき関わったスタッフ以外は知ることがないよう
内密にデリケートに扱っていました。
その中でも
私は預けられる場面に遭遇することが本当に多く
その度に心にズシーンと鉛がのっかっていくようでした。
家族の愛情をたっぷり受けて 帰る場所がある赤ちゃんと
帰る家も家族もいない 預けられてしまった赤ちゃん
同じ大事な命なのに
どうしてこの先の人生がこんなにも違うんだろう
考えてもきりがないことなのに
助かった命を喜ばないといけないのに
目の前のかわいい赤ちゃんをみて
いつも心が打ち砕かれそうになっていました。
またこの病院では望まれた訳ありの妊婦さんを受け入れ
特別養子縁組を行う施設でした。
戸籍上も実の親子となる制度で
産んでも育てることができない赤ちゃんを
出産してすぐ別室で待機する里親さんのもとへ。
出産した実親は放心状態だったり泣き崩れたり。
そんなお産場面にも直面していました。
今思えば私は「人が人を産む」ことの意味をちゃんと理解しておらず
さまざまな出産のかたちに向き合う覚悟が出来ていなかったんだと思います。
自分が望んだ職業そして現場だったのに
勤めて半年たった時
今まで蓄積された鉛が崩れるような重い感覚に襲われ
堰を切ったように泣き続けました。
私が泣いたところでこの子達に何かを与えられるわけではない。
そう思って今まで泣くことを我慢していたのに
涙が止まりませんでした。
私の人生初の燃え尽き症候群だったと思います。
そこからは同期や当時付き合っていた今の夫や家族
尊敬できる先生・上司そして先輩方
全ての人に支えられて持ち直すことができました。
「出産」は
ただ赤ちゃんをこの世に産むだけではない。
出産後には赤ちゃんにもお母さんにもその家族にも
待ち受けている未来がある。
私たちは助産師はその未来のことも考えて
私たちが今できる最大限のケアをしていかないといけない。
それを強く強く胸に刻むことができた新人時代でした。
ここの病院で得た経験は
今でもいろいろな場面で私を奮い立たせてくれます。
当時の同期や上司はみんな違う場所いるけど
この病院で得た経験をバネにいろいろな方面で活躍をしています。
未だによい刺激をもらえ
まだつながりを持てることをとても有難く思います。
そして私も世の中に少しでも貢献できるよう
日々精進していかねばと思います。